箕面滝道、橋本亭前から滝までの道のりを「哲学ウォーク」に参加しながら歩いた。
哲学ウォークとは、オランダの哲学者ピーター・ハーテロー氏が考えだした、参加者みんなを「哲学者化」する試み、らしいです。
ウォークのスタート地点でまず哲学者や宗教者などの「名言」 をくじ形式で引き、その名言から一つのコンセプトを抽出(コンセプチュアライズ)する。(ex.「我思う、故に我あり」から「今、ここ」というコンセプトを導く、など。)
そして、歩きながら、そのコンセプトについて考え、それにぴったりくる場所(ex.公衆トイレ)をみつけたら「ハイ!」と手を挙げ、参加者皆に名言、コンセプト、何故その場所を選んだか、を説明する。
参加者は疑問に発表を聞いて感じた事を質問する。しかし、その場では議論・解答はしない。発表者は質問を一つだけ選び引き続きそれについて考えながら歩く。
重要なのは、歩いているときは一切ほかの人と話してはいけないということ。黙々とコンセプトについて考え場所を探す。質問について考えながら歩く。
哲学ウォークが終わったら最終的には出てきたコンセプトを順番に並べて振り返りそこからまた何かを発見するということもするようですが、そこの説明は自分も良くわかっていないので割愛。
前置きが長くなりましたが、この日自分が引いたのは次の言葉。
「道というものは恍惚として、おぼろけであり、 見定め難いものである。だが、 その恍惚として見定め難いもののうちに、 何か形らしいものがあり、物らしいものがある。
その薄暗い窈冥のうちに、妙霊な何ものかがある。 その霊妙さは、否定しがたい真実さをもち、 そのうちには確かさがある。(※)」
横に川が流れていたこともあり、概念化で「流れ」という言葉を選んだ。
「道というものは恍惚として、おぼろけであり、
その薄暗い窈冥のうちに、妙霊な何ものかがある。
横に川が流れていたこともあり、概念化で「流れ」という言葉を選んだ。
立ち止まった場所は、「音羽山荘」。
数年前に結婚式代わりに家族での食事会をした場所。
時の流れや、感覚・感情的な流れを感じたので選んだ。
出てきた質問からは今まで考えた事もなかった「流れは途切れたり、干からびたりすることがあるのか?」というものを選んだ。
常々、時間や運命、偶然/必然や、感情や、色々なものを「流れ」として感覚的に捉えていた。常にそこに絶え間なく存在するもの。
それが途切れたり、干からびたり、、するんやろうか?
歩きながら始めは死や眠りを思った。
確かに個人としての「流れ」は途切れ、干からびるかもしれない。
しかし、しっくりこない。
「流れ」は個人的なものだけではなくもっと大きなものも含むように思う。
次に思い浮かんだのは、「祈り」。
アフリカや日本で共に過ごしたイスラーム教徒たちの1日5回の祈り。
永遠の様なアッラーの前に「人間の時間」が途切れ、大いなる存在に対し「私/個人」が相対化される瞬間。
はっとした。
もしかしたらこれかもしれない。
というか、根本的な思い違いをしていたのかもしれない。
時間や運命、偶然/必然や、感情や、色々なものの「流れ」は常に「ある」のではなく、逆にそれに思いを馳せ、身をゆだねるときに初めて立ち現れるのではないか。
常にある「流れ」が何かの拍子に途切れるのではなく、私が、社会が、世界が対峙した時に初めて立ち現れ、「流れ」る。
「ある」ということと「なす」こと。
そういったことを考えながら、哲学ウォークのゴール、箕面大滝の前にたどりつく。
そこでは、アートイベントの一環として演奏とダンスの即興的なパフォーマンスが始まっていた。
若者、子連れ、高齢な方含めたくさんの方々が見ている中、繰り広げられる音と踊りに集中する。
パフォーマーはもう10年近く前に篠山の農園でお会いしたヤンジャさん。
6、7年程前に、何度かセッションをした、ゴードンさん。
一年前に知り合った、佐久間さん。
自分にとって、様々な時間が混ざり合い、流れていく。
3人の踊り手の方々を見ていて、彼らの「自意識と体の動き」がどうなているのか気になった。
自意識と無意識と、体と演奏者と観客と世界との流れ。
●ダンス+サウンド即興パフォーマンス「Minus ーマイナス」
7/21(日)午後7時~8時
場所 箕面大滝前 Yangjah(コーディネート)D. 佐久間新 伴戸千雅子 YangjahS. Christopher Fryman Jerry Gordon 長谷川敬
箕面の森アートウォーク http://www.art-gallery-zone.com/artwalk/
※老子の言葉。当日は名言を引いた時点では誰の言葉かは分からない設定でした。
※老子の言葉。当日は名言を引いた時点では誰の言葉かは分からない設定でした。
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